小樽のパワースポット
3万年前から栄えた「古代都市」小樽
小樽には、近現代史に名を残す有名な建築物等の様々な名所が有り、多くの観光客で賑わっています。
北海道というと、明治以降にようやく文明が開けたように思われていますが、実は、そんなことはありません。今から約3万年前、シベリアから樺太経由で北海道へ南下してきた人類がいました。彼らこそ、私たち日本人の祖先の一つ(北方ルート)なのです。
この寒冷地適応した北方ルートの祖先たちは、石器技術を開発して毛皮、住居、火を用いる技術集団で、とても進んだ文明を持っていました。彼らは、小樽に大規模な集落を形成して定住し、旧石器時代(紀元前2万8000年)から活発な活動を開始します。 縄文時代(1万5000年前)には土器と弓矢を発明し、生活がより豊かになると芸術性の高い漆器や楽器も登場します。縄文人は世界最先端の文化を誇り、争いを好まず、1万年以上も続く平和な社会をつくっていたのです。
何万年も前という、想像もできない程の歴史。そんな悠久の彼方から連綿とこの地に「人」が定住していた、という事実。
何を信じていいのかわからない時代、目まぐるしく急激に状況が変わっていく日々。
こんな時代に生きる私たちは、今この時こそ、日本という国、日本人が生まれた時のことに、原初の時代に想いを馳せる必要があるのでしょう。
パワースポット観光案内
小樽から余市にかけての間は、縄文時代の古代遺跡が密集する国内でも稀有な地域です。
金吾龍神社のある小樽市蘭島から出土した「板状土偶」は遮光器土偶の原型となるもので、女性をかたどったものが多いことから、出産を助け、邪気や疾病を配して活力をもたらすなど、神聖かつ呪術的な性格の強い道具であると考えられています。この一帯は古代祭祀の中心地で、「西崎山環状列石(ストーンサークル)」や世界的にも貴重な「フゴッペ洞窟」はおすすめしたい名所です。
フゴッペ洞窟(余市町)
余市町栄町にある続縄文時代(約3500年前)の遺跡です。洞窟には、約7メートルもの厚さの遺物を含む層があって、骨角器や石器、続縄文式土器(薄手土器)などが出土しています。さらに動物の骨、貝等も発見されています。
全体に岩壁刻画が見られ、全体で約800程度の画があります。90%以上が人物とされていて、これほど多く人物が描かれている先史壁面画は世界でも例がないそうです。
図は200以上もあり、人物や動物、船などを象徴したと推定されるものが多いため、呪術的な側面も指摘されているほか、シベリアや北アメリカ大陸の極北地帯に見られる岩壁彫刻との文化的つながりも推測されています。
当時は、人々は自然の岩面を平面にならすことはしないで、亀裂やでこぼこ(凹凸)のまま、岩面に文字や絵を刻んでいました。フゴッペ洞窟も岩の亀裂などに関係なく、広範囲に図が刻まれています。
1953年(昭和28年)国の史跡に指定されました。
一般的に北海道の地名はアイヌ語を語源として、漢字を「当て字」にした地名が多く見られます。「フゴッペ」の由来については諸説があるようですが、一説によれば、「フムコイベ(浪声高き所)」、もしくは「フンキオベ(番をする所)」または、「フンコベ(トカゲ)」などの言葉が訛ったのではないか?と言われているそうです。
手宮洞窟(小樽市)
小樽市にある手宮洞窟は1866年に発見され、描かれている彫刻(陰刻画)は続縄文時代(約1600年前頃)のものです。1921年(大正10年)には、その価値が認められ、国指定史跡となりました。洞窟内には「手に杖のようなものを持った人」や「角のある人」「背中に羽がある人」等が描かれています。
その他、角のある四足動物といった不思議なモチーフが描かれています。以前は文字とされていたが、今では船、魚、人などとされています。
西崎山環状列石(余市町)
余市町にある西崎山の尾根に「西崎山環状列石」(ストーンサークル)があります。大小様々な自然石が200個ほど配置され、石を円形に並べて中心に棒状の石を立てた特殊な構造です。現在では、7ヶ所が残っています。しかし、本来はもっと多く存在していたと考えられています。ここには墓壙(穴)状の列石があり、立石では最大で70~80cmほどにもなります。
また石の間から縄文時代後期中頃の土器が出土しています。さらに配石の下に穴があり、中からは燐分が検出されているため配石墓と考えられていています。しかし中には葬送を伴うもの、伴わないものが混在していて、一概に「墓」とは言い切れないようです。
こうした縄文人の住居から離れている山の中腹・丘陵地などに縄文時代の遺跡がある場合、そこで祭祀・祭りを行っていたようです。
西崎山は標高70mあり、ここから余市町の市街と日本海が一望できます。
西崎山環状列石は、北海道の史跡に指定されています。
地鎮山環状列石(小樽市)
地鎮山環状列石(ストーンサークル)は、縄文時代後期(約3500年前)の遺跡です。地鎮山の頂上(標高約50m)に高さ1mほどの立石が12個見つかりました。
また、その中央付近、敷き詰められた石の下から縦横2m、深さ1mほどの四角い墓穴が発見されました。
縄文時代後期における墓の一種ではないか、と推測されており、発見された穴が1個だけのため、集団墓というより首長の個人墓ではないか、と考えられています。
忍路環状列石(小樽市)
小樽市の忍路にあるストーンサークルの遺跡。日本における考古学史において、初めて学会に報告されたストーンサークルです。また1961年に国の史跡に指定されました。中には、1万年以上前の遺跡だと主張する人もいます。
別名で「忍路環状石籬(おしょろかんじょうせきり」、「三笠山ストーンサークル」とも呼ばれます。約3500年前の縄文時代後期のものと推定されており、10cm~20cmの石が環状に置かれていて、その内側に高さ1m~2mの大きな石が配置されています。
北海道小樽市から余市町にかけて、多数存在しているストーンサークルの中でも忍路環状列石は最大のものです。忍路環状列石は、主に縄文後期(約3500年前)区画墓と呼ばれる集団墓地ではなかったか?という説が言われています。
実は小樽~余市間は、ストーンサークルの密集地帯です。
ストーンサークルの作られた目的はいまだ謎のままです。縄文中期頃から、北海道・東北では墓上に大きな石を乗せるなどして、「生活の場」と区別していました。そのため、ストーンサークルも墓の一種と推定されていて、小樽市の資料では忍路環状列石を大規模な墓の一種と記載しています。